裁く人より光を与える人になる。批判者より模範となる(スティーブン・R・コヴィー)。

集中が切れたとき、

私語に夢中のとき、

いたずら書きをしているとき、

ウトウトしかけたとき、

子どもを裁いていました。

 

子どもを

批判していました。

 

「裁く人より~~~」

このような言葉に出会うと、

心の声が聴こえました。

 

「子どものためなの?」、

「本当は、誰のためなの?」と、

ハッキリと聴こえました。

 

このような言葉に出会うことと

心の問い掛けを聴くことを

何回も繰り返していると、

あるとき、気付きました。

 

私が何かを学ぶとき、

「そうしないようにしていることなのだ」と、

気付きました。

 

自分のためだったのですが、

子どものためだと思って、

子どもを裁いて

批判していました。

 

では、

自分のためではない、

子どものためには?

 

計算しているか?

計算していないか?

ここだけを見るように

入れ替えました。

 

集中が切れているではなくて、

計算していないとだけ

見るようにしました。

 

私語に夢中になっているではなくて、

計算をしているのかを見ました。

 

計算しながらの私語もありました。

 

いたずら書きをしているではなくて、

計算していないとだけ

見るようにしました。

 

ウトウトしかけたではなくて、

計算していないとだけ

見るようにしました。

 

計算していなければ、

集中が切れていようが、

私語に夢中であろうが、

いたずら書きをしていようが、

ウトウトしていようが、

私がリードして、

計算してしまうようにしました。

 

6+5 のたし算でしたら、

子どもと同じ計算の仕方で、

「ろく」としてから、

「しち、はち、く、じゅう、じゅういち」と

指で数えて、

答え11を出しました。

 

子どもは、

切れている集中を戻して、

計算に戻り、

6+5=11 と書いてくれました。

 

ウトウトしていて、

子どもが書けないようでしたら、

私が、

子どもの手を包み持って、

「=」と「11」を

書いてしまいました。

 

ウトウトから計算に

戻ることもあれば、

ウトウトが続くこともありました。

 

計算しているかどうかだけを見て、

気にするようにしました。

 

1問で足りなければ、

2問3問と

同じようにリードしました。

 

子どもを裁きません。

子どもを批判しません。

 

ただ

計算の模範になります。