涙がポトリと落ちます。見えるのはこれだけでしょうか?

 {\normalsize { \begin{array}{rr} 23 \\ \:\times \:20 \\ \hline  460 \end{array} }}\\ の見本を見て、

 {\normalsize { \begin{array}{rr} 31 \\ \:\:\:\times \: 20 \\ \hline \end{array} }}\\ をまねして、

計算するように誘います。

 

計算できない目の前の子は、

声を立てないで、

静かに泣いて、

涙がポトリと落ちます。

 

このことだけを見るのは、「こちら」です。

今の「こちら」が見ています。

 

「鉛筆は持ったまま」や、

「目の前に問題を出したまま」や、

「キチンと座ったまま」のように

見ようとすれば

実にさまざまなことが見えるはずです。

 

今の「こちら」の見えるものを。

見ています。

 

それが、ポトリと落ちた涙です。

 

他者の間違った行動を責め、

良い行動は認めようとしないのです。

こうなっています。

 

だから、

「泣かない」、

「涙を拭いて」、

「問題が見えないでしょ」と、

責める気はないのですが、

責めてしまいます。

 

静かに泣きながらも、

計算しようと耐えている子には、

とてもつらい言葉です。

 

「ポトリと落ちた涙」が見えていますが、

すぐに、「他に何が見える?」とすれば、

「計算していない」となりますから、

「鉛筆は持ったまま」や、

「目の前に問題を出したまま」や、

「キチンと座ったまま」のような

良い行動が見えます。

 

「こちら」が、少しだけ違う人になるから、

今までとは違うことを見るようになります。

 

するとさらに、

「九九の力は残っている」や、

「2けた×2けたの計算ならばできる」などの

目の前の子どもの内面の力まで見るように、

「こちら」が、もっと違う人になることができます。

 

今までとは、

ここまで違うことを見る違う人になれば、

静かに泣いていることを少しも気にしないで、

計算をリードする人になります。

 

「このれい(0)、ここ」で、

20の0を下に動かします。

子どもが、 {\normalsize { \begin{array}{rr} 31 \\ \:\times \:20 \\ \hline  \:\:\:\:0 \end{array} }}\\ と書きます。

 

静かに泣きながらも、

計算しようとしている子の

計算だけを手伝うこのようなリードです。

 

少し脇道の話ですが、

 {\normalsize { \begin{array}{rr} 23 \\ \:\times \:20 \\ \hline  460 \end{array} }}\\ の20は、

一の位が、0です。

 

一の位が、何も無くて、

(だから、0です)

十の位が、2です。

 

十の位の筆算のかけ算です。

 

答えも、十の位になりますから、

一の位に何もありません。

(つまり、一の位は、0です)

 

答え460の0は、

一の位に何も無い、

十の位のかけ算の答えです。

 

(×÷026-91)