7+8= の答え 15 を浮かべるたし算の感覚を「つかんだ」よりも、「入った」の方がピッタリの表現です。スッカリ出させて、空っぽになった子どもの心に、たし算の感覚が「入った」なのです。

6+8=、4+6=、9+5=、8+7=、5+4= 。

・・・・・

 

6+8= の 6 の次の 7 から、

7、8、9、10、11、12、13、14 と、8 回数えて、

答え 14 を出します。

 

4+6= の 4 の次の 5 から、

5、6、7、8、9、10 と、6 回数えて、

答え 10 を出します。

 

9+5= の 9 の次の 10 から、

10、11、12、13、14 と、5 回数えて、

答え 14 を出します。

 

・・・・・

 

このような数える計算の仕方に慣れています。

一連の動作を習慣のように、

次々と行って、答えを出します。

 

こうなった子は、

「もうたし算は、計算できる」、

「次は、どのような計算なのかな・・」です。

 

それなのに、

「えっ、まだたし算なの」、

「もうできるのに・・」と、

たし算の練習が続きます。

 

子どもは、

半ばウンザリしています。

 

でも、

たし算の練習が続きます。

 

こちらは、

目的があってこうしています。

 

8+7= を見たら、

答え 15 が、

瞬時に浮かぶ感覚を持ってほしいからです。

 

子どもに説明して、

理解してもらえるのならば、

説明したいのです。

 

そうしたいのですが、

数える計算の子に、

「答えを浮かべる感覚があって・・」と、

説明しても、

理解されそうもありません。

 

数えれば答えを出せる子は、

聞く耳を持たない状態です。

 

だから、

たし算の練習を続ける理由を説明しないまま、

練習を続けさせます。

 

そうすると、

5+4= を見たら、

答え 9 が、

6、7、8、9 と数える前に、

心に浮かぶようになります。

 

子どもには、

とても不思議なことです。

 

たし算の答えは、

数えて出すと思っていますから、

数える前に、

問題を見ただけで、

答えが浮かぶ(出ている)のですから、

「どういうことなの・・」なのです。

 

しかも、

日に日に、

問題を見るだけで答えが浮かぶ問題が、

増えていきます。

 

そしてやがて、

たし算の問題を見たら、

どの問題でも、

答えが浮かぶようになります。

 

と、

このようなことが、

ウンザリしてでも、

数える計算を続けていると起こります。

 

さて、

こうなったこの子は、

答えを浮かべることのできるたし算の感覚を、

「つかんだ」のでしょうか?

 

確かに、

「つかんだ」ように見えるのですが、

実は、

「入った」と捉える方が、

ピッタリの表現です。

 

ウンザリしていても、

数える計算で答えを出し続けて、

この子の心が、

すっからかんになったから、

その何もなくなった心に、

答えを浮かべる感覚が「入った」感じなのです。

 

「つかんだ」よりも、

「入った」がピッタリの表現です。

 

しかも、

このようなたし算だけではなくて、

他の計算においても、

徹底して出させるから、

「入った」となるのが、

算数や数学の計算の育ち方のようです。

 

(基本  {\normalsize {α}} -409)、(+-  {\normalsize {α}} -255)