を解く前の子に、
「何を消すの?」と聞きます。
この連立方程式を見た子が、
「 y を消す」と答えてくれます。
続いて、
「どのようにするの?」と聞きます。
すると、
「2 番目と 3 番目を足す」ことと、
「3 番目を 2 倍してから、
1 番目に足す」ことを、
答えてくれます。
このように解き方を決めた後で、
子どもに解かせます。
このような連立方程式を解く子は、
大多数が、
連立方程式に自信を持っています。
ですがまだ、
ハッキリと、
「私は、
この方程式を解くことができる」と、
先に決めてはいないようです。
「何を消すの?」と聞かれて、
「 y を消す」と答え、
「どのようにするの?」と聞かれて、
「2 番目と 3 番目を足す」ことと、
「3 番目を 2 倍してから、
1 番目に足す」と答える力があります。
だから、
方程式を解くことに、
自信を持っています。
まだ、
自信を持っているレベルのようです。
方程式を見てから、
どのように解くのかを決める前に、
「解くことができる」と、
既に決めているレベルではないようです。
少し先に進んで、
を解く前の子に、
「何を消すの?」と聞きます。
3 番目の方程式は、
未知数 x が欠けています。
連立方程式の形が、
少し変わっています。
そうであっても、
連立方程式を見た子が、
「 z を消す」と答えてくれます。
答えてくれたので、
「どのようにするの?」と聞きます。
すると、
「1 番目と 2 番目を足す」ことと、
「1 番目と 3 番目を足す」ことを、
答えてくれます。
このように解き方を決めた後で、
子どもに解かせます。
少し難しそうな連立方程式に進むことで、
子どもの気持ちが、
少し変わります。
連立方程式を解くことへの自身が、
更に強くなります。
それだけではなくて、
「解くことができる」と、
連立方程式を見る前に、
決めている子が、
少数の子ですが、
出てきます。
「解くことができる」と、
先に決めていると、
感じさせる子です。
もっと
難しさを感じさせる連立方程式に進みます。
を解く前の子に、
「どうするの?」と聞きます。
この連立方程式に、
いきなり、
「何を消すの?」と聞くと、
不自然です。
だから、
「どうするの?」と聞きます。
すると子どもは、
「並べ替える」、
「 x、y 、z 、= 、数字」のような、
その子らしい言い方で答えてくれます。
並べ替えさせます。
すると、
こうなります。
そうしたら今度は、
「何を消すの?」と聞きます。
・・・・・と、
解く前に、
どのように解くのかを決めさせるようにします。
それぞれの式を、
並べ替えるような難しさまで進むと、
かなりの子が、
「解くことができる」と、
既に決めているようになるようです。
でもこれは、
「解くことができる」と、
決めていると感じさせる・・のような
曖昧な判断です。
実は、
「私は、
この方程式を解くことができる」と、
先に決めている子に育てたいのです。
「解くことができる」と決めているから、
「何を消すの?」や、
「どのようにするの?」や、
「どうするの?」と考えることで、
解き方を決めることになります。
「解くことができない」のでしたら、
「解き方を探す」こと自体、
無駄なことになります。
だから、
「解くことができる」と、
先に決めている子に育てたいのですが、
困ったことに、
教えようがないのです。
確実ではありませんが、
このような子に育つ可能性があることは、
ひたすら、
解く前の子に、
「何を消すの?」や、
「どうするの?」と聞いて、
子どもに考えさせることなのです。
(基本 -522)、(分数 -220)