計算問題の答えを、「自力で出せること」と、 「答えの出し方を理解できること」は、無関係です。「理解できれば、答えを出せる」でもなければ、「答えを出せれば、理解できる」でもないのです。

「理解すること」と、

「自力で答えを出すこと」は、

「無関係」という関係です。

 

「理解できていれば、

自力で答えを出せる」は、

本来、無関係なことを

無理に並べているだけです。

 

理解することは、

「入れる学び」です。

 

自力で答えを出すことは、

「出す学び」です。

 

向きが真逆なのです。

 

 

「理解できていれば、

自力で答えを出せる」を

受け入れたとして、

 {\normalsize {  \begin{array}{rr}  \:\:\:\:\:\:406 \\ \:\times  \:\:\:\:\: 27 \\ \hline \end{array}  }}\\  を理解できていて、

 {\normalsize {  \begin{array}{rr}  \:\:\:\:\:\:406 \\ \:\times  \:\:\:\:\: 38 \\ \hline \end{array}  }}\\  の答えを自力で出せない子を、

次のように捉えるのでしょう。

 

 {\normalsize {  \begin{array}{rr}  \:\:\:\:\:\:406 \\ \:\times  \:\:\:\:\: 27 \\ \hline \end{array}  }}\\  を理解できているから、

自力で答えを出すことができるけれど、

 {\normalsize {  \begin{array}{rr}  \:\:\:\:\:\:406 \\ \:\times  \:\:\:\:\: 38 \\ \hline \end{array}  }}\\  を理解できていないから、

自力で答えを出すことができません。

 

だから、

この子は、

 {\normalsize {  \begin{array}{rr}  \:\:\:\:\:\:406 \\ \:\times  \:\:\:\:\: 38 \\ \hline \end{array}  }}\\  の答えの出し方を聞くのです。

 

 

つまり、

ここで言う「理解」は、

「3けた×2けた」の理解ではなくて、

個々の計算問題の理解です。

 

でも、

子どもは、

ハッキリと区別しています。

 

 {\normalsize {  \begin{array}{rr}  \:\:\:\:\:\:406 \\ \:\times  \:\:\:\:\: 38 \\ \hline \end{array}  }}\\  の答えの出し方を

理解するために知りたいのではなくて、

自力で計算するために知りたいのです。

 

つまり、

 {\normalsize {  \begin{array}{rr}  \:\:\:\:\:\:406 \\ \:\times  \:\:\:\:\: 38 \\ \hline \end{array}  }}\\  の答えの出し方を

理解したいなどと、

子どもは思ってもいないのです。

 

自力で答えを出せるようになりたいために、

「どうやるのですか?」のように、

聞くのです。

 

それでも、

この子に、

 {\normalsize {  \begin{array}{rr}  \:\:\:\:\:\:406 \\ \:\times  \:\:\:\:\: 38 \\ \hline \end{array}  }}\\  の答えの出し方を

言葉で説明して、

理解させようとしますか?

 

こうしてしまうと、

残念ながら、

子どもの聞きたいことに

答えていないことになります。

 

(基本  {\normalsize {α}} -1085)、(×÷  {\normalsize {α}} -199)