子どもは、自力で答えを出せるようになろうとして学びます。こちらは、こちら自身が、自力で答えを出している様子を見せます。これで、学びが成り立ちます。

{ \normalsize { \begin{array}{rr}\:\:\:\: 54 \\ - 28 \\ \hline \end{array} }} \\  を計算して、

 {\normalsize { \begin{array}{rr} \:\:\:\:54 \\ -\: 28\\ \hline \:26\end{array} }} \\  と書くまでを教えます。

 

 

習う子どもと、

教えるこちらに、

乗り越えることが難しい深い亀裂があります。

 

習う子どもは、

自力で答えを出せるようになること自体を

学ぼうと決めています。

 

教えるこちらは、

答えの出し方を教えることに

絞るとはなく、絞り込んでいます。

 

しかも、

子どもも、

こちらも、

ハッキリと意識して、

そうすると決めて、

そして、そうしているのではないのです。

 

 

何となくのボンヤリとしたレベルですが、

決めていることは決めています。

 

何となく、

これを習うと決めていることを

子どもは学びます。

 

何となく、

これを教えると決めていることを、

こちらは教えます。

 

 

ですから、

子どもは、

答えの出し方を学ぼうとしていません。

 

こちらは、

自力で答えを出せるようになること自体を

教えようとしていません。

 

大きくすれ違ったままです。

 

 

でも、ありがたいことに、

答えの出し方をこちらが教えるとき、

自力で答えを出せるようになること自体を

それとなく見せています。

 

そして、

自力で答えを出せるようになること自体を

子どもが学ぶとき、

答えの出し方に

ボンヤリとした形で含まれています。

 

(基本  {\normalsize {α}} -1704)、(+-  {\normalsize {α}} -956)