8+6= の答え 14 を、自力で出すこと自体を教えます。言葉で説明してしまうと、自力で答えを出すことではなくなります。できそうで、できない教え方です。

8+6=  の 8 を見て、

その次の 9 から、

+6 の 6回、

9、10、11、12、13、14 と数えて、

答え 14 を出して、

8+6=14  と、

自力でできるように育てています。

 

「たし算  8+6=  を教える」では、

教えた子どもが、

自力で答えを出せるようにするために、

何を手伝うのかを

ハッキリとさせていません。

 

ですから、

何を手伝えば、

子どもが自力で答えを出せるのかを、

ハッキリとさせます。

 

 

もっとも明確なのが、

「こちらが、

自力で答えを出している様子を見せること」です。

 

こちらが、

自力で答えを出している様子を、

子どもの目の前で、

使ってみせれば、

子どもは、

こちらが、

自力で答えを出している様子を

見ることになります。

 

「あのようにすれば、

答えを出せる」と、

一目瞭然です。

 

 

8+6=  を見ている子の

目の前で、

この子の真後ろの位置から、

ペンを持ったこちらの腕を出して、

そして、

8 を示してから、

「はち」と言います。

 

8 を示すことと、

「はち」と言うことだけです。

 

これ以外は、

何も言いません。

 

 

例えば、

+ の左のこの数字を見て、

読むと、

「はち」です。

 

このように

言葉で言えば、

こちらが、

答えを出すためにすることを

説明できます。

 

でも、

「こちらが、

自力で答えを出している様子を見せること」と、

違ってしまいます。

 

 

8 を示すだけと、

「はち」と言うことだけにすれば、

「こちらが、

自力で答えを出している様子を見せること」に

確かになります。

 

こちらが、

どのようにしているのかを、

言葉で説明していないからこそ、

「こちらが、

自力で答えを出している様子を見せること」に

なるのです。

 

ハッキリと意識して、

区別します。

 

 

続いて、

6 を示して、

「く、じゅう、じゅういち、

じゅうに、じゅうさん、じゅうし」と、言います。

 

これも、

「こちらが、

自力で答えを出している様子を見せること」

そのものです。

 

6 回、数えることや、

8 の次の 9 から数えることを、

言葉で説明できますが、

そうすると、

「こちらが、

自力で答えを出している様子を見せること」

ではなくなってしまいます。

 

ハッキリと意識して、

キチンと区別します。

 

 

最後に、

= の右を示して、

「ここ、じゅうし(14)」と、言います。

 

やはりこれも、

「こちらが、

自力で答えを出している様子を見せること」

そのものになっています。

 

ここでも、

6 回、数えた最後の 14 が、

8+6=  の答えであることを、

言葉で説明すれば、

「こちらが、

自力で答えを出している様子を見せること」

こうではなくなってしまいます。

 

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