こちらが、子どもの後ろにいてリードするだけで、子どもは、主体性の率先力で、自分が計算しているように感じてしまいます。

8+5=  の 8 を、

こちらのペン先で、無言で示し、

「はち」と声に出して言い、

5 を、ペン先で、無言で示し、

「く、じゅう、じゅういち、じゅうに、じゅうさん」と、

声に出して言い、

= の右の余白を、

ペン先で、無言で示し、

子どもが書くのを待ちます。

 

こちらは、

子どもの真後ろから、

子どもの肩越しに腕を出して、

子どもの目の前の  8+5=  の

答えの出し方を実演しています。

 

子どもは、

自分の肩から突き出た

腕とペン先の動きを見て、

後ろからの声を聞いています。

 

 

さて、

こちらが後ろではなくて、

子どもの目の前にいれば、

子どもは、

自分以外のこちらを見ます。

 

子どもは、

自分自身と、こちらがハッキリと別れていると、

自覚できる位置関係です。

 

ですが、

こちらが子どもの後ろにいれば、

子どもは、

こちらの突き出た腕とペン先だけを見て、

後ろからの声を聞くのですから、

子ども自身の腕や鉛筆の動きと、

子ども自身の声と、

ハッキリと区別できない状況です。

 

姿が見えなくて、

声だけで、

8+5=  の答え 13 を出されたら、

自分が計算したのではないのですが、

自分が計算したような感覚になります。

 

不思議な感じです。

 

そして、

8+5=13  と書きます。

 

 

子どもの肩越しに突き出て

目の前で動き回るペン先ですから、

見るも見ないも選ぶことなく

自然に見てしまいます。

 

すぐ後ろからきこえる声ですから、

聞くも聞かないも選ぶことなく、

自然に聞いてしまいます。

 

しかも自分の腕や鉛筆ではないのに、

自分の声ではないのに、

すぐ目の前で動き、

すぐ後ろからの声ですから、

自分の~~のような感じが

自然にするようです。

 

こうなっていますから、

教えられている依存の反応性はなくて、

自力の計算の主体性の率先力そのものです。

 

子ども自身と、

こちらとの区別を付けにくいままに、

5問、

10問と主体性の率先力で、

こちらの実演を見ることで、

主体性の率先力のままに「分かった!」と、

答えの出し方をつかみます。

 

(基本  {\normalsize {α}} -1235)、(+-  {\normalsize {α}} -671)