他者に腹を立てないことを選択できるようになるのです(スティーブン・R・コヴィー)。

「他者に腹を立てないことを選択できる」が、

本当かどうかを考えます。

 

人は、

選択の自由を持って生まれています。

 

知っていても、

知らなくても、

今、これを読んで知っても、

選択の自由を持っています。

 

知っていて使っていても、

知っていながら使っていなくても、

今、これを読んで知って、

使ってみようと思っていても、

選択の自由を持っています。

 

使っていようとも、

使っていなくても、

これから使おうと思っていても、

選択の自由を持っています。

 

選択の自由は、

その方がどうあろうとも、

持っている事実は変わりません。

 

しかも、

選択の自由に気が付いて、

使おうと思えば、

いつからでも使うことができます。

 

選択の自由は、

外からの刺激に対して、

反応を選ぶ力です。

 

「他者」が

何かをしたり

何かをしていたり

何もしていなかったり

これが刺激です。

 

この刺激に対して、

「腹を立てる」が反応です。

 

さて、

「他者」が、

不愉快なことを私にしたから、

私は「腹を立てる」とします。

 

刺激は、

他者がした不愉快なことです。

 

反応が、

腹を立てることです。

 

選択の自由を持っていますから、

時間をいったん止めて、

考えます。

 

「他者がした不愉快なこと」に

選ばされたのが、

「腹を立てる」とするのではなくて、

「私」が選択の自由で選んだ反応が、

「腹を立てる」とみるようにします。

 

このようにみることを受け入れれば、

「腹を立てない」を選ぶかどうかではなくて、

選択の自由で、

選ぶこともできると分かります。

 

日常生活で

この選択の自由を持っている事実を、

何回でも

確かめることができます。

 

「他者がした不愉快なこと」に、

「腹を立てた」その時、

「イライラすること」をいったん止めて、

私が、「腹を立てる」を選んだのだから、

選び直すことができて、

「腹を立てない」を選ぶと決めて、

実際に「腹を立てない」ようにしてみます。

 

選択の自由を持っていることに

気付くはずです。

 

1回で気付かなければ、

2回、

2回で足りなければ、

3回、

選択の自由を持っていることに

気付くまで、

「腹を立てた」その時に、

確かめます。

 

日常生活です。

「他者」は、

配偶者であったり

子どもであったり

親であったり

知人であったり

とさまざまです。

 

誰のどのようなことに対しても、

「他者に腹を立てない」を

選ぶことができます。

 

「他者に腹を立てない」を選ぶことと、

実際に

「他者に腹を立てない」とできるかどうかは

別です。

 

「他者に腹を立てない」を

選択できるのだと知れば、

「他者に腹を立てない」と

できるようになります。