筆算のひき算 32-15 から逃げて、いたずら書きをしている子を見ると、「やめさせなければ」と、自然に自動的に思うとはなく思って、そうしてしまいます。これが、パラダイムの習慣です。

筆算のひき算  { \normalsize { \begin{array}{rr}\:\:\:\: 32 \\ - 15 \\ \hline \end{array} }} \\  から逃げて

いたずら書きをしている子です。

 

この子を、

こちらが、

どのように見るかは、

パラダイムという習慣です。

 

 

こちら自身が、

{ \normalsize { \begin{array}{rr}\:\:\:\: 32 \\ - 15 \\ \hline \end{array} }} \\  を計算するとき、

計算から逃げて、

いたずら書きをしようとする自分を、

「繰り下がりのひき算は嫌だよね」、

「息抜きでもするかい?」と、

許すかどうかです。

 

自分が、

自分自身に対してです。

 

 

自分自身が、

{ \normalsize { \begin{array}{rr}\:\:\:\: 32 \\ - 15 \\ \hline \end{array} }} \\  の計算に気が乗らないで、

息抜きをしようとして、

絵を描き始めようとしたら、

「今は、計算の時間」、

「絵を描く時間ではない」と、

自分自身を制するのでしたら、

これが、

自分のパラダイムの習慣です。

 

そして、普通、

自分のパラダイムの習慣を

改めて見つめ直すようなことをしませんから、

そのままのパラダイムの習慣で、

いたずら書きをしている子を見ます。

 

そして自然に、

自分のしていることを疑うこともなく、

いたずら書きをやめさせようとします。

 

自分自身が、

息抜きで、絵を描こうとしても、

許さないのですから、

いたずら書きをしている子どもを

許すこともしません。

 

そして、

「いたずら書きをしている」、

「すべきではないことだから、

やめさせなければ」と、

こうなってしまいます。

 

 

でも、

「計算していない」だけなのですが、

そうとは見ないのです。

 

「計算をしていない」、

「  { \normalsize { \begin{array}{rr}\:\:\:\: 32 \\ - 15 \\ \hline \end{array} }} \\  の計算に戻さなければ」と、

思うこともないのです。

 

根拠も保証もないままに、

いたずら書きをやめさせれば、

子どもは、

{ \normalsize { \begin{array}{rr}\:\:\:\: 32 \\ - 15 \\ \hline \end{array} }} \\  の計算に戻ると決めています。

 

残念ながら、

それほど単純なことではないのです。

 

いたずら書きをやめさせたら、

ボ~ッとしてしまうこともあるのです。

 

 

確実に、

{ \normalsize { \begin{array}{rr}\:\:\:\: 32 \\ - 15 \\ \hline \end{array} }} \\  の計算に戻したければ、

いたずら書きのことを

少しも触れないようにして、

いたずら書きをしている子どもに、

突然に割って入り、

{ \normalsize { \begin{array}{rr}\:\:\:\: 32 \\ - 15 \\ \hline \end{array} }} \\  の 2 と 5 を示しながら、

「2-5、引けない」と言って、

「12-5、7」と引いて、

5 の真下を無言で示します。

 

こうすれば、

子どもは、

 {\normalsize { \begin{array}{rr} \:\:\:\:32 \\ -\: 15\\ \hline \:\:\:\:7\end{array} }} \\ と書きますから、

確実に、計算に戻ります。

 

(基本  {\normalsize {α}} -1083)、(+-  {\normalsize {α}} -580)