子どもが自転車に乗れるのは、
自分でコツをつかんだからです。
そして、
コツをつかめたのは、
自転車に乗る練習をしたからです。
自転車に乗ってしまう練習、
つまり、
「出す学び」で、学んだから、
自転車に乗れるようになります。
ややくどくて、
そして当たり前すぎることですが、
とても大事なことですから、
あえて書きます。
自転車に乗るコツを、
言葉で教えてもらい、
理解したから、
自転車に乗れるようになったのではありません。
言葉で、
自転車の乗り方を説明してもらう
「入れる学び」で学んでも、
自転車に乗れるようになりません。
このように、
自転車に乗るようなことであれば、
コツをつかむのは、
子ども本人と分かっています。
しかも、
当たり前すぎることですから、
子どもに、
「あなたが自分でコツをつかみます」、
「コツをつかめば、乗れるようになります」のような、
説明もしません。
いきなり、
自転車に乗って、
練習し始めます。
ところが、
5+3= のようなたし算になると、
言葉で説明するのが、
普通の教え方になります。
どうしてこうなってしまうのか
不思議なことですが、
計算の仕方を、
言葉で説明してしまいます。
そこで、
普通ではないことなのですが、
いきなり自転車に乗って練習することをヒントに、
5+3= のたし算の計算を、
ただ見せるだけの教え方をします。
5+3= の 5 を示して、
「ご」と声に出して読み、
3 を示して、
「ろく、しち、はち」と声に出して数え、
= の右を示して、
「はち(8)」のように計算してしまいます。
すると、
こちらの計算の実況中継を、
見て、聞いていた子は、
5+3=8 と書きます。
いきなり自転車に乗ってしまうように、
いきなり計算してしまう教え方を、
子どもは、
受け入れてしまいます。
5+3= の 5 を示して、
「ここ、見て」などと言いません。
言う必要がないのです。
5 を示せば、
子どもは見てしまいます。
そして、
「読んで」などと言わなくても、
こちらが、
「ご」と声に出して読めば、
5 を読んだのだということくらい、
子どもは理解できます。
続けて、
5+3= の 3 を示せば、
「ここ、見て」と言うまでもなく、
見ていますし、
「ろく、しち、はち」と、
こちらが声に出して数えれば、
数えていることと、
3 回を子どもは正しく理解できます。
いきなり自転車に乗って、
自転車に乗る練習をするように、
いきなりこちらの 5+3= の計算を、
ここでの例のように見るだけの教えられ方が、
子どもは好きなようです。
真剣になって、
こちらの計算の実況中継を見て、
こちらが出した答え 8 を、
自分が出したように錯覚するのでしょうか、
5+3=8 と書いてしまいます。
1 問見るだけでは、
回数が少ないようです。
4~5 問くらい見れば、
計算の仕方をつかんでしまいます。
(基本 -406)、(+- -252)