のような筆算のかけ算を、
50 問計算しようとしている子です。
今日は、
気持ちが荒れています。
荒々しい態度です。
このような子を見たら、
「困った・・」、
「算数の計算をするような状態ではない」と、
思ってしまうのが普通です。
回りくどい言い方をすると、
本題に移れなくなりますから、
回り道をしないで、
ズバリ核心の話をします。
この子は、
「荒々しい態度」を出しているのです。
この子が、
自分の主体性で、
「荒々しい態度」を出しています。
今のこの子は、
していませんが、
を計算して、
と答えを出すのは、
この子です。
つまり、
「荒々しい態度」も、
この子の出すことですし、
と、計算して答えを出すことも、
この子の出すことです。
この子にしたら、
同じ向きなのです。
何かを「出す」向きです。
でも、
このような見方は、
普通ではありません。
普通の見方は、
「荒れた状態」を、
アレコレと導くことで、
「平穏な状態」に変えて、
それから、
「平穏な状態」の子が、
と、
計算して答えを出します。
「荒れた状態」のままの子に、
と、計算して答えを
出させようと考えたりしません。
そもそも、
「荒れた状態」も、
と、計算して答えを出すことも、
同じ向きで、
何かを「出す」向きだと、
見るようなことをしません。
ですから、
「荒れた状態」のままの子に、
と、計算して答えを出させることを、
試したこともありません。
でも、
仮に、
「荒れた状態」のままの子に、
今はしていない
計算をさせることも、
可能であるとします。
こうなると、
「荒れた状態」を、
「平穏な状態」に、
変える必要がなくなります。
「荒れた状態」のままの子に、
と、計算して答えを出すことを、
新たにさせるだけのことです。
実際の経験上の話ですが、
このことは、可能です。
試していないだけのことです。
ここで、
おまけの話ですが、
試すための
注意点です。
目の前の子の
「荒れた状態」を、
全く気にしません。
もちろん、
見えているのですが、
見ません。
そして、
このような態度を保って、
の計算だけを、
リードします。
「荒れた状態」の子へのリードではありません。
いつものような
落ち着いた状態の子へのリードと、
全く同じリードをします。
の 7 と、3 を示しながら、
小声で、しかも、早口で、
「しちさんにじゅういち(7×3=21)」と、
声に出して言い、
7 の真下を示して、
「いち(1)」、
「指、に(2)」です。
見えていて、
見ませんが、
「荒れた状態」の子にリードしています。
荒々しい態度の子にリードしています。
こちらのリードに、
何も反応しないことがあります。
そうでしたら、
「ここ、いち(1)書いて」と誘うか、
あるいは、
書くこと自体を手伝います。
書くことを手伝うのでしたら、
無言です。
「荒れた状態」の子へのリードは、
計算以外、
無言が効果的です。
「荒れた状態」を、
別の状態に変えようとしていません。
「荒れた状態」のままで、
計算することもできますから、
このことを体験させようとしています。
こちらが、
子どもの鉛筆を持ち、
子どもが鉛筆を持つ手に、
持たせてしまいます。
その手を、
こちらが包み持って、
子どもの手を動かして、
と書きます。
と、
このような感じで、
「荒れた状態」のままの子に、
の計算をリードしていきます。
「荒れた状態」であっても、
子どもはすぐに、
こちらが手伝っていることは、
計算だけであることに気付きます。
ですから、
実際に試していただくと、
「荒れた状態」のまま、
計算もできることがすぐに分かります。
実は、
こちらが分かるだけではありません。
当の子ども本人も、
自分が「荒れた状態」であることを
自覚しているだけに、
「あれ、計算しているよ・・」と、
あり得ないことが起こったように、
計算している自分自身を、
とても驚いて、
そして、
認めます。
(基本 -521)、(×÷ -114)