「答えを出せない子」に、8×125= を教えるとき、未来のある時点の「確実に答えを出せる子」を、こちらは内面にイメージします。つまり、この子の達成予言を心に持って教えます。

8×125= を、

筆算  {\normalsize {  \begin{array}{rr}  \:\:\:\:\:\:\:8 \\ \:\:\:\:\times   125 \\ \hline \end{array}  }}\\ に書き換えたりしないで、

このまま計算します。

 

もちろん、

数字を入れ替えて 125×8= としたり、

その筆算 {\normalsize {\begin{array}{rr}\:125 \\ \:\:\times\:\:\:\:\:\: 8\\ \hline \end{array}}}\\ ともしません。

 

8×125= のまま計算します。

 

「ここ、難しいぜ・・」と、

独り言のように言うことがあります。

 

 

実は、

「ここ、難しいぜ・・」は、

こちら自身への言葉です。

 

こちらが、

子どもの正しいイメージを、

先に持つ手助けになります。

 

普通は、

子どものイメージが、

現実よりも後になります。

 

子どもが、

楽に確実に、

8×125= を、計算できるようになった後、

できるようになった子のイメージを持ちます。

 

8×125= を、

確実に計算できるようになった・・のような

子どもの変化が先にあって、

このような変化の後追いで、

確実に計算できる子のイメージを持つのが、

普通に起こることです。

 

 

さて、

8×125= の答えの出し方を、

これから教えます。

 

自力で、計算できない子です。

 

それなのに、

こちらの心の中のこの子のイメージを、

「答えを出せない子」ではなくて、

「確実に答えを出せる子」にします。

 

目の前の子を、

そのままイメージしてしまうと、

「答えを出せない子」になってしまいます。

 

今の時点ではなくて、

これから教えて、

教えた結果、

自力で計算できる子に育った未来の時点に、

「確実に答えを出せる子」がいます。

 

このように、

未来のある時点にいるはずの

「確実に答えを出せる子」を、

今の時点で、

こちらの心にイメージするから、

「ここ、難しいぜ・・」なのです。

 

 

さて、

このような難しいことを

できるこちらであるとします。

 

まだそうはなっていないのですが、

「確実に答えを出せる子」のイメージを

こちらの心に持って、

この子に、

8×125= の答えの出し方を見せます。

 

つまり、

「確実に答えを出せる子」に教えますから、

こちらの計算を見せるだけでいいのです。

 

 

次のような実況中継が、

実例です。

 

8×125= の 8 で、

ペン先をピタッと止めて、

子どもの視線を 8 に引き付けてから、

5 でも、ペン先をピタッと止めて、

子どもの視線を引き付けて、

「8×5=40」、

= の右に、数字3つ分を空けて、

「ここ、0」、

「指、4」です。

 

「答えを出せない子」を、

自己イメージにしている子が、

「確実に答えを出せる子」を、

イメージしているこちらの実況中継を見て、

8×125=   0 と書きます。

 

 

実況中継を続けます。

 

8×125=   0 の 8 と 2 を、

ペン先をピタッと止めて示してから、

「8×2=16」、

子どもが指に取っている 4 を触って、

「4 を足して、20」、

子どもが書いた答え 0 の左隣を示して、

「ここ、0」、

「指、2」です。

 

見ている子どもは、

まだ、

「答えを出せない子」の自己イメージのまま、

8×125=  00 と書きます。

 

 

続けて、

8×125=  00 の 8 と 1 を、

ペン先をピタッと止めて示してから、

「8×1=8」、

子どもが指に取っている 2 を触って、

「2 を足して、10」、

子どもが書いた答え 00 の左隣を示して、

「ここ、10」です。

 

見ている子どもは、

「答えを出せない子」の自己イメージが、

かなり曖昧になりながら、

8×125=1000 と書きます。

 

こちらが子どもに持つイメージは、

未来のある時点の

「確実に答えを出せる子」のまま動かしません。

 

(基本  {\normalsize {α}} -716)、(×÷  {\normalsize {α}} -145)